きんいろのカタツムリ
─ 第1話 ─
「その背中のデカいバッグの中身はなんだい?」
T字路を左に曲がって、ニュータウン入り口の坂を自転車で登っていたら、突然後ろから声をかけられた。振り返ったら自転車用のヘルメットを被ったオジサンがすぐ後ろにいた。
大きな星マークのついたウェアに速そうな自転車。競輪の選手? いわきには競輪場があるので練習している選手をときどき見かける。オジサンはひょいっと私の横に並んだ。
「ホルンです」
「え? 何を掘るの?」
思わず吹きだしそうになった。
「楽器ですよ、楽器。えっと、金属の管でできた丸いやつ」
「ラッパの親戚かい?」
「そうです。……気難しい親戚っていう感じです」
「あっはは、その親戚とは折り合いが悪いのか」
私の答えがツボにハマったのか、ひとしきり競輪選手のオジサンは笑っていた。
よりによってこんな気難しい楽器を選んでしまうというのが私の要領の悪いところだ。なにしろ管がぐるぐる巻かれているカタチがすでに難しそうなのに。この楽器がギネスブックに「世界で一番難しい金管楽器」として認定されていると知ったのは、随分あとになってからだ。
「で、上手なのかい?」
「へたくそです……」
「そういう楽器は息が続かないとうまく吹けないんだろう?」
「私、元水泳部ですからその点はバッチリです」
「おお、そうか! 俺たちの世界も肺活量がないと勝負にならんからな。とは言っても肺活量があればすぐに速く走れるかというと話が別だけどな。きっとその楽器もそうなんだろ?」
「ううっ、痛いところ突きますね」
「まあ、なんでもそうだよ。そう簡単には上達はしないもんだ。そんなに簡単にどんどん速いヤツが現れたら俺は商売あがったりだ」
オジサンは私の顔を見てにやりと笑った。
ここ、いわき市は吹奏楽が盛んな町だ。小学校から大学まで、多くの学校に吹奏楽部があるし、全国大会で優勝するようなレベルの部もたくさんある。もちろん社会人の楽団もある。
「うちの大学でも演奏会がありますから、よかったら聴きに来てください。私、団員ですから。この先のいわき明星大学の」
「おう、今度聴きに行くよ。じゃあ、頑張れよ、ホルン吹きの美少女!」
(び、美少女って…!)
オジサンはそう言ってスピードを上げると、あっという間に坂の向こうに消えていった。
美少女と言われてちょっといい気分になったけど……、ここ最近続いている心のモヤモヤにそれはすぐに飲み込まれてしまった。
ふう……。
私、最近、ため息ばかりついているような。
南門からキャンパスに入り、駐輪場の一番奥に自転車を停めた。
校舎に向かう階段を登り切り、振り返って学生用の駐車場を見回すと、いつも知恵理が停める辺りに彼女の赤いクルマが見当たらない。あれ、今日は朝から講義があったはずなのに。
私の名前は小田切紗江。この大学の教養学部二年生だ。知恵理っていうのは中学からずっと一緒の私の親友だ。
厚生館の一階を覗くと白衣を着た薬学部の男の子がいた。
「ねぇ、桜井知恵理を見なかった?」
「このあと臨時休講だからいったん家に戻って、そのあと泳ぎに行くって言ってたよ」
ああ、まったくもう! 肝心なときにいないんだから。モヤモヤしたこの気分を早く知恵理にぶちまけたいのに!
我ながら勝手な言い分に心の中で苦笑い。しょうがない。とりあえず午後の講義が始まる前に何か食べよう。そう思って学食の階段を登ろうとしたら後ろから声をかけられた。
「小田切、ナイスタイミング!」
陣内耕太郎が白い袋をぶら提げて走ってきた。
「今日のは自信作だぞ!」
白い袋の中身は耕太郎が作った新作のお弁当だ。耕太郎の家はいわきの駅から少し離れたところでお弁当屋さんをやっている。うちのお父さんが勤めている会社の近くなので、お父さんもときどき買いに行くと言っていた。店構えは小さいけれど、結構おいしいと地元では評判のお弁当屋さんだ。但し、その評判は耕太郎じゃなくて、耕太郎のお父さんの腕によるものだけどね。
「耕太郎の自信作はアテにならないからなぁ」
「まあそう言わずに。今日のはホントに自信作だから」
耕太郎とは一年のときにコミュニケーション研修で同じグループだった。研修後にそのグループで食べ放題のお店に行ったとき私が大食いだとバレて、それ以来、ときどきこうやって新作弁当の試食を頼まれているのだ。食費も浮くし気軽に引き受けてはいるものの、あまりに独創的すぎて、一口食べて「これはちょっと無理」ということもある。大当たりのヒット率は二割くらいかな。
「天気もいいし、噴水のところで食おうぜ」
そう言うと耕太郎はこちらの答えも聞かずに講義館の吹き抜けに向かって歩いていく。後ろをついていくと鼻唄でなにか歌ってる。
(ドラえもんの歌?)
ああ、耕太郎よ、私にその脳天気さを少し分けてほしいよ。
吹き抜けの先にある噴水のところのベンチで耕太郎が広げたお弁当は、ご飯の上に刻んだレタスとトマト、その上にハンバーグ、そしてハンバーグの上に目玉焼きが載っていた。
「今日のは自信作だぜ。ロコモコ丼弁当。いわきと言えばハワイアン。ハワイと言えばロコモコ丼だろ。ということで、ポイントは俺特製のちょっと甘めのこのドレッシング!」
小さな容器に入れたドレッシングを袋から取り出すと、耕太郎はそれをハンバーグの周りにぐるっとかけた。
「ささっ、どうぞ。目玉焼きとハンバーグを崩して、レタスやトマトとご飯をぐしゃっとまぜて一気に食うんだ」
「なんだかそれ、野蛮な食べ方だよ」
「そうやって食うのが一番ウマいんだよ」
「ふーん……。では、いただきます」
渡されたスプーンで言われたとおりに目玉焼きとハンバーグを崩して、ぐしゃっとまぜて口に運んだ。玉子の黄身とハンバーグのデミグラスソースと特製ドレッシングがまざった濃厚な味が口の中に広がった。
(あ、おいしい)
「どうだ、うまいか?」
ここでこのセリフを言うのが耕太郎のお約束だ。
「結構おいしいかも」
「だろー! 雪菜も大絶賛だったぜ」
雪菜ちゃんというのは耕太郎の中学生の妹だ。耕太郎の妹とは信じられないくらい可愛い。
「確かに雪菜ちゃんとか育ち盛りのコが好きそうな味だと思う。ボリューム感もあるし」
「小田切だってまだ育ち盛りだろう」
「あたしはもうカロリーとかいろいろ気になるお年頃なの」
「うそつけ。気にしてるヤツは学食でカレーの大盛りとか食わないよ」
「そういうこと言ってるともう試食してあげないよ!」
「悪い悪い。お茶買ってくる」
耕太郎は走ってお茶を買いにいった。私はあらためてじっくり味わいながらお弁当を食べ進めた。確かにこれはおいしい。今まで試食した耕太郎のお弁当の中でも三本の指に入る。これなら学食で口直しをしなくても済むや。一食分浮いた。
戻ってきた耕太郎は買ってきたお茶を私の前に置きながら、にこにこしている。
「小田切の食べっぷりはいいよな。ホント、食い物屋にとっては天使のようだよ」
「それ、ガツガツ食べるって言われているみたいで、なんだかあんまり嬉しくない」
「そんなことないさ。食べ物屋って言っても俺んちは弁当屋だから、買ってくれた人がウチの弁当を食べるのを目の前で見る機会ってそんなにないからさ。目の前でウマそうにウチの弁当を食べてる人を見るとホントに嬉しいんだよね」
耕太郎の顔を見ると満面の笑みだ。二十歳過ぎてこんなふうに無邪気に笑う男子も珍しい。基本的に耕太郎はいいヤツなのだ。ちょっと元気すぎて暑苦しいけど。
「耕太郎は卒業したらお店を継ぐんだよね?」
「そう、この町って食べ物で全国区の名物ってあまりないじゃん。だから俺が新しい名物を作る」
「大きく出たねー」
「ウマい弁当をどんどん作って店を大きくして、まずは駅弁に参入するのが第一歩で、いずれ東京のデパ地下にも出店する。そして日本中に『いわきに陣内屋あり』と名を轟かす」
耕太郎のこの大風呂敷を聞くのは今が初めてじゃない。入学直後にあった新入生研修会の自己紹介でも聞いたし、最初にお弁当の試食を頼まれたときにも聞かされた。この話をする耕太郎は熱いというか、ちょっと暑苦しいくらいなのだけど、なんだか今日は耕太郎の話がいつもと違って聞こえる。たぶん先週から続いている私の心のモヤモヤのせいだ。
「だから陣内屋の将来のために経営のことを勉強している。折角オヤジが大学に行かせてくれたんだからな。頑張らないと。小田切は卒業したらどうするんだよ?」
「え?」
ふいに聞かれてうろたえた。
「えっと……、二年になったばかりだし、まだわからないよ」
「小田切も夢とかあるんだろ?」
「夢」という言葉にどきっとした。
「わ、私は……」
耕太郎の問いかけになにか答えようと思ったけど、言葉が見つからない。
「ん? どうした? 俺、なにかヘンなこと言った?」
「私だっていろいろやりたいこと、あるよ。いろいろやりたいこと……でも秘密だから言わない」
「なんだよ、秘密って。せっかく俺が自分の夢を語ったのに」
「耕太郎は、こっちが聞かなくたって勝手に喋るでしょ」
「あはは。だけどさ、『地域とビジネス』の講義はいろいろ覚えることがたくさんあってついていくのが大変だよ。事業承継がテーマの講義は俺にぴったりなんだけど、承継というほどデカイ店じゃないしなぁ」
耕太郎の話をぼんやり聞いていたら、後ろから声をかけられた。今日はよく後ろから声をかけられる日だ。
「また試食会? 私の分は残ってないの?」
「あ、加奈子さん」
耕太郎がそう言って、ベンチから飛び上がるように腰を浮かせてお辞儀をした。振り返ると加奈ちゃんがいた。加奈ちゃんは私より一学年上の三年生。いわき市の出身だけどお父さんの転勤で中学、高校と東京の学校に通い、ご両親のUターンに合わせてこちらに戻ってきて、この大学に入学した。一年しか違わないのに私なんかよりすごく大人っぽいし、東京育ちで垢抜けている。
以前、学食で私の前に並んでいた男子が食堂のおばさんにすごく横柄な態度をとったので文句を言おうか迷っていたら、私が言う前に後ろから伸びてきた手が男子の襟首をつかんだ。その手の主は「あんた、何様のつもり!」とすごい剣幕で男子にお説教して、おばさんに謝らせてしまった。それが加奈ちゃんだった。それをきっかけに加奈ちゃんとは仲良くなった。今では私の頼れるお姉ちゃんみたいな存在だ。
「すみません、今日は加奈子さんの分は……」
「もしかして紗江が二人分食べちゃったとか?」
「ひどい、そんなに大食いじゃないよー。でもね、今日のお弁当はおいしかったよ」
「えっ、それは残念!」
耕太郎は頭をかきながら恐縮したような顔をしていた。
加奈ちゃんは地元の高校の英語教師を目指している。そのための予行演習だと言って、最近学習塾で英語講師のアルバイトを始めた。
「新しいスーツを買ったんだ。できる女教師ふう。明日からこのスーツで塾の授業をやる」
加奈ちゃんは持っていた紙袋から黒のスーツを取り出してみせた。ウエストが思いっきり絞ってあって、しかもスカートがかなり短い。
「加奈ちゃん、カッコいいけど高校生にこのミニスカートはちょっと刺激的かも……」
加奈ちゃんは小柄だけど抜群にスタイルがいい。隣に並ぶのがいやになるくらいのナイスボディなのだ。加奈ちゃんがこのスーツを着たら男子高校生にはきっと目の毒だ。
「ついでにこれも買った」
そう言いながらポケットから黒縁のメガネとアンテナみたいに伸びる指示棒を取り出した。
「これでバッチリ女教師!」
黒縁のメガネをかけて指示棒を持った姿は確かに女教師っぽいけど、加奈ちゃん、それってただの女教師コスプレじゃ……。
「加奈子さん、カッコいいです! 絶対に高校生にウケます」
耕太郎が目を輝かせて言った。こいつったら、加奈ちゃんの前じゃいつもこうだ。
「イケてる?」
「バッチリです」
「あー、早く可愛い高校生たちに愛の鞭を振るいたい」
まったく加奈ちゃんはどこまで本気でどこから冗談なのかわからない。でも先生になる日を楽しみにしているのはよくわかる。「こんなときこそ自分の生まれ故郷のためになにかしたい」、そう言って東京の会社を辞めてUターンしたお父さんのことを加奈ちゃんはよく話す。きっとそんなお父さんの影響なのだろう。地元の学校の先生になるのは加奈ちゃんの夢なのだ。
耕太郎と加奈ちゃんのコントのような会話を聞いていたら随分時間が経ってしまっていた。
「あ、そろそろ先に行くね。講義の前に部室に楽器を置いてこなくちゃならないから」
「また新作ができたら試食してくれよ」
「お安いご用よ。でもあんまりユニークなのは勘弁して。加奈ちゃん、またね」
二人を残して講堂の一階にある吹奏楽団の部室に向かった。
キャンパスのメインストリート。去年の今頃はここを歩くだけでどきどきした。特に夢や目標があったわけじゃない。でも大学生活が始まって、このキャンパスで新しい友だちができて、新しい場所で新しい生活が始まれば、やがて自分にもなにか答えが見つかるんじゃないかと思っていた。でも一年経った今、まだなにも答えは見つかっていない。
このホルンだってそうだ。中学のときに少しだけ吹いていたけど、高校生になってからは一度も吹くことがなかった。高校のときに憧れていた齋藤先輩に大学で再会して、誘われるままに吹奏楽団に入り、数年ぶりに手にしたものの一向に上達しない。たぶん、吹奏楽団のホルン奏者の中で私が一番へたくそだ。たぶんじゃない。絶対そうだ。
たまには週末に練習しようと思ってホルンを自宅に持ち帰ってみたものの、結局ケースから出しもしなかった。
そういうのが本当に私のダメダメなところ。思いついても気持ちが長続きしないというか。決めたようで実はぜんぜん決めていないというか……。
「小田切、なにブツブツ言ってるんだ?」
顔を上げたら目の前に祥平がいた。下を見ながら歩いていたので、前から来た祥平に気がつかなかった。
(いやなヤツにヘンなところ見られた!?)
祥平もコミュニケーション研修で同じグループだったのだけど、それがなければこいつとは絶対に友だちになっていなかった。なんだか気取っていて私が嫌いなタイプなのだ。
「ひとりごとよ」
「危ないから前見て歩けよ。ただでさえ危なっかしいんだから」
「お気遣いどーも」
しかもこうやっていつも一言多い。おなじみの口の端を少し上げた笑いを浮かべながら祥平は講堂前の広場を横切っていった。本人はニヒルな笑いのつもりらしいけど、それ、単に口が曲がっているだけですから!
講堂のロビーは空気がひんやりしている。部室のドアを開けようとしたら中からフルートの音が聞こえてきた。ドアを開けると弥生が練習をしていた。
「あ、紗江ちゃん、ごきげんよう」
「昼休みに練習? 弥生はえらいなあ」
「そんなことないですよ」
弥生は地元で何代も続いている老舗旅館「雛乃屋」の娘で、なんというか、とってもふわふわしている女の子だ。髪型も着ているものも、いつも可愛らしい。今日もきれいに巻いたヘアスタイルに、今の季節にぴったりのワンピースにきれいな色のカーディガンを羽織っている。そんな弥生がフルートを吹く姿には男子学生のファンがたくさんいる。彼女は私の友だちの中で「ごきげんよう」という言葉を使うただ一人の女の子だ。
「紗江ちゃんは週末にお家で練習したの?」
「うん、まあ、そんなとこ」
「紗江ちゃんこそえらいです」
「いやー、まあね」
「あ、いけない! 午後の講義、始まっちゃいますよ。日本文化史の先生、いつも時間前に来ちゃうから先に行きますね」
弥生はフルートをケースにしまい、そう言って慌ただしく部室を出ていった。
ふう……。
部室で一人になって、また小さくため息をついた。楽器の棚を見ると齋藤先輩のクラリネットが置いてある。今日の練習には来るのだろうか。
私も教室に行かなくっちゃ。ホルンを棚に置いて部室を出た。
講義館では午後の講義が始まろうとしていた。耕太郎が友だちと話しながら講義室に入っていくのが見えた。廊下の先では缶コーヒーを飲んでいた祥平がかったるそうに別の講義室に入っていった。
私の講義はすでに始まっていた。後ろのドアからこっそり入り一番後ろの席に着いた。バッグからタブレットを取り出し講義のページを出したあと、ぼんやりと黒板を眺める。先生の声が頭の中を素通りしていく。
二年生になるとき、私が選んだメジャー、サブメジャーの組み合わせは主に地方公務員を目指す人が選ぶ組み合わせだ。一年生の終わりにチューターの先生と相談して決めた。
……決めた?
私はなにを決めたのだろう。両親も賛成してくれた。でも、それは本当に私が決めたことなんだろうか?
午後の講義が終わり、吹奏楽団の練習のために講堂に向かった。各自が椅子をステージに並べて練習の準備をしている。リクルートスーツ姿の齋藤先輩も来ていた。きっと今日はどこかの会社訪問に行ってきたのだろう。他の四年生と笑いながら話をしている。
「スーツだと齋藤先輩のイケメンぶりが際立ちますね」
齋藤先輩に見とれていたら弥生が小声で話しかけてきた。
「うん、カッコいいなぁ……」
思わずそう答えたら弥生に笑われた。弥生には私が齋藤先輩のことが好きだとバレている。他のことでは天然ボケを連発するのに、こういうことには弥生の勘は鋭い。というか、弥生に言わせれば「紗江ちゃんの齋藤先輩を見ているときの顔に書いてある」らしい。齋藤先輩は高校時代から、いつも私にとって「ちょっと遠くにいる憧れの人」だ。
私が高校に入ったとき、新入生歓迎会でその高校の吹奏楽部が演奏してくれた。齋藤先輩を初めて見たのはそのときだ。齋藤先輩は三年生でクラリネットを吹いていた。ソロパートで立ち上がって吹く姿に目が釘付けになった。
一瞬、齋藤先輩に近づきたくて吹奏楽部に入ろうかと考えた。でも中学の吹奏楽部でちょっとだけホルンをやって、一向に上達しない自分に嫌気が差してすぐにやめてしまったし、それに高校では知恵理と一緒に水泳部に入る約束をしていた。
結局、齋藤先輩が高校を卒業するまでの一年間で言葉を交わす機会は数えるほどしかなかった。だから高校三年のときにこの大学のオープンキャンパスを訪ねて一年ぶりに再会したとき、私のことを覚えていてくれたのにはびっくりした。すごく嬉しかった。
「もしこの大学に入ったら、ホルンの経験があるんだから吹奏楽団においでよ」
そう言われて、私は思わず「はい」と返事していた。
「はいはい、じゃあ始めようか。今日はあまり時間がないから、まず一回通しでやってみよう」
音楽監督の竹本先生が手を叩きながら指揮台に上がった。今日の曲はホルンの出番はあまりない。竹本先生の指揮で演奏が始まった。齋藤先輩の姿を目で追う。スーツ姿でクラリネットを持つ姿は演奏会のときのようだ。
二ヶ月ほど前に齋藤先輩のリクルートスーツ姿を初めて目撃したときのことを思い出す。
「齋藤先輩も就職活動本番ですね」
弥生にそのときそう言われてはっとした。きっと成績優秀な先輩のことだから、いつか聞いた「地元の復興の役に立てるような企業に就職したい」という夢を叶えることだろう。そして来年の今頃には、もうこのキャンパスに齋藤先輩はいない。当然のことと頭の中ではわかっていたけど、改めてその現実を突きつけられたようで胸が苦しくなった。きっと高校のときと同じように告白することもなく、先輩が私の気持ちに気づくこともなく、ただ時が経ち、私はキャンパスに取り残されるのだろう……。
ここ最近続いているモヤモヤの原因がなんなのか、自分でも薄々気がついていた。
齋藤先輩がいる大学。それだけの理由でこの大学を選んだわけじゃないけれど、でも特にやりたいことも、将来の夢もなかった私は、なにを基準に進路を選べばいいのかわからなかった。だから、自分が進む道を決める理由を「憧れの先輩がいるから」というわずかな動機に委ねたんだと思う。そのわずかな動機だった齋藤先輩さえも、来年の三月にはいなくなってしまう。
そうなったら、私がここにいる理由はなに?
耕太郎のいつもの暑苦しい夢の話を少し羨ましく感じたのも、きっとそのせいだ。私にはやりたいことがなにもない……。
(あ、しまった!)
ぼんやりしていて曲のホルンパートに入り損ねた。慌てて吹いたら大きく音を外してしまった。
(うわっ!)
自分の出した音に驚いて譜面台を倒してしまい、ステージに「ガシャーン!」と音が響き渡った。
竹本先生が両手を大きく振って演奏をストップさせた。
「はーい、ストップ。もう一度最初からやってみよう」
腰を浮かせて周りに小さく頭を下げた。皆の冷ややかな視線が痛い。またやってしまった。齋藤先輩がしかめっ面をしているのが横顔でもわかった。
弥生が振り返り、小さく握りこぶしを振って口を動かした。
(紗江ちゃん、ドンマイです)
くちびるの動きでそう言っているのがわかった。頷いた私の顔はたぶんひきつっていただろう……。
練習のあと、知恵理の携帯に電話してみた。出ない。出ないということは、きっとまだ泳いでいるのだろう。
水泳部が練習しているスイミングセンターまで大学のキャンパスから自転車で十五分ほどの距離だ。キャンパスを出て競輪選手のオジサンのように、サドルから腰を上げどんどん加速した。
こんなモヤモヤした気持ちをぶつけられるのは中学からずっと一緒の知恵理しかいない。走り出してすぐに全身汗だくになったけど、もうどうでもいいや。
スイミングセンターに着いて左右を見回しながら駐車場の中をゆっくり進んでいくと、一番奥に知恵理の赤いクルマが駐まっていた。
(あ、いたいた!)
そう思った次の瞬間、駐車場と周りの芝生の段差に気づかず、私は自転車と一緒に芝生にひっくり返っていた。
(あいたた……)
今日はもうさんざんだ。ここまでさんざんだといっそ清々しいよ……。
プールサイドに行くと水泳部の練習はすでに終わっている様子で、知恵理は第二コースを背泳ぎでゆっくり流していた。声をかけると私に気がついて泳ぎながら手を振った。
「ねえ、聞いてよ!」
泳ぐ知恵理にあわせてプールサイドを歩きながら、ここ最近のモヤモヤのことを話した。今、駐車場の段差でコケたこと、今日の練習での失敗、齋藤先輩のこと、一向にうまく吹けないホルンのこと、そして自分の未来のこと……。 途中から止まらなくなって一気に喋り続けた。
上を向きながらゆっくり泳いでいる知恵理は相づちも打たない。
「もう、ちゃんと聞いてる!?」
思わず出した大きな声が屋内プールに響いた。反対側のプールサイドにいた男子水泳部員がびっくりした顔で振り返った。
「聞こえているわよ」
そう言いながら知恵理は器用に背泳ぎからクロールに切り替えると一息にプールの端まで泳いでタッチした。立ち上がってスイミングゴーグルを外すと、私の顔を見てかすかに首を振った。
「また始まったの? いつものモヤモヤ病」
「いつものとはちょっと違うの! もっと重症なの!」
「一年遅れの五月病?っていうか、もうとっくに五月は終わってるし」
「だって……」
「長いつきあいだけど、いまだになにがきっかけになるのか、さっぱりわからないわよ。いつもは吞気なくせに、ある日突然悩み出すとドツボにハマる悪い癖」
知恵理はいつものとおりバッサリだ。言い返すこともできずに、いじけて私はプールサイドに座り込んだ。コースロープをくぐって私の足下にやってきた知恵理は「やれやれ」という表情をしたあと、なにかを思いついたかのようにクスリと笑った。
「紗江は元水泳部なんだから、悩んでないで……」
そう言いながら知恵理がゆっくり私の二の腕をつかんだ。
「なに?」
「思い切って飛び込んでみればいいのよ」
彼女が思いっきり私の腕を引っ張った。
「ちょっ! うわっ! なにーっ!!」
バランスを崩して腕を振り回しながら、つんのめるように頭から水の中に落ちた。頭の上から知恵理が笑いながらなにか言っているのが聞こえた。
もーっ! いったいどういうつもりよ!?
しばらくもがいて、やっとプールの底に足を着けて水の上に顔を出した。
「もう、なにすんのよ!」
「ごめんごめん、つい」
「着替えも持ってないのにどうすんのよ、これ」
「私のジャージ、貸してあげるわよ」
「まったくもう」
知恵理はまだ笑っている。
結局、知恵理と顔を見合わせて私も吹きだしてしまった。知恵理はいつも素っ気なくてクールな雰囲気を漂わせているくせに、こうやってときどき子どもっぽいことをする。
ひとしきり笑ったあと、私は深呼吸して体を水に浮かべた。
「でも、頭のてっぺんまで水に沈んだの、久しぶりだよ」
知恵理も私の横に浮かんだ。
「たまには泳ぎに来れば? 気分転換になるでしょ?」
「そうだね」
そう。これは知恵理なりの、ちょっと手荒い励ましなのだ。浮かびながら手の平で水の感触を確かめてみる。
「水の感触、懐かしい」
高校時代、大した成績は残せなかったけれど一生懸命泳いだ。毎日の練習、合宿、大会……。
「あんなに一生懸命になったことってそれまでなかった」
そして、それ以来、あんなに一生懸命になったこともない。それは見つからなかったのではなく、自分が見つけようとしなかったからではないだろうか……。
「結構いい記録が出てて好調だなって思っていたら、ある日突然悩み出して練習に来なくなっちゃったりして。紗江にはさんざん振り回されたわよ」
「その節はいろいろご迷惑おかけしました」
「ほら、顧問の飯島先生から『おまえ、親友なんだから、ちゃんと小田切の世話を焼け』とか言われて。私は紗江の保護者じゃありませんって文句言ったこともあるよ」
「えー! そんなことあったの?」
「あったあった、マジで」
知恵理は「もうワンターン」と言って、プールの反対側に向かって泳いでいった。私は水を蹴ってプールの底に潜った。底にタッチして体を回し、下から水面を見た。水面越しに天井の照明がゆらゆら光っている。ほんの少し息を吐き出すと、小さな泡が揺れながら水の中を上っていって水面で弾けた。泡みたいに、このモヤモヤした気持ちも弾けてしまえばいいのに。
服を着たままだから動きにくくてもどかしい。全部脱ぎ捨ててハダカになってしまいたい。本当の私は水の中をもっと自由に泳ぐことができるのに……。
知恵理に借りたジャージの上下にブーツというちぐはぐな格好でスイミングセンターを出た。駐輪場で自転車に乗り、知恵理のクルマのところまで走っていった。
「自転車をここに置いて私のクルマで帰るっていう選択肢もあるわよ」
「いいよ、大丈夫。自転車で帰る。ジャージは洗って明日持っていく」
「いつでもいいよ」
「ねえ、知恵理」
「なに?」
「ちょっと元気になった」
知恵理は笑ってうなずくと「また明日」と言ってクルマを出した。彼女のクルマを見送ったあと、私も夕暮れの中自転車を走らせた。
その夜、夢を見た。水泳大会のスタート台の上。左右にいる皆は水着姿なのに私だけが服を着ている。スタートの合図がして飛び込んだけど、服を着たままでうまく泳げない。周りはどんどん先に行ってしまう。なんで? なんで? 水の中でもがいて、もがいて、もがいて……。
そこで目が覚めた。
もうすぐ前期試験。それが終われば夏休みだ。

読み込み中…